吉原悠博 プロフィール
YOSHIHARA, Yukihiro

2017

培養都市

COLONY

水と土の芸術祭2015, 新潟|文化庁メディア芸術祭2017, 東京|映像プロダクション|Resolution: 2160×3840|Total time: 17min 48sec
音楽:福島諭
撮影&編集:吉原悠博

東京都心から新潟の柏崎刈羽原子力発電所までの「高電圧送電ケーブルのある光景」を4K一眼レフカメラで撮影し、縦長の映像で投影する映像インスタレーション。新潟は日本有数の米作地域だ。そこを流れる信濃川を分水し美田を保つための治水システムが完成を迎える1970年頃に減反政策が始まった。またその頃、原子力発電所の計画が動き出した。急速に経済発展した日本のなかで、互いに依存しあう東京と新潟との関係が鮮明になる。巨大電力消費地・東京に暮らす人々への、またかつて東京に生きた新潟県民である私自身への問いとして、高電圧送電ケーブルが象徴する「地方と首都の極端な非対称関係」を顕在化させた。

東京と新潟を結ぶ送電線と撮影箇所

東京都心の夜景

東京都世田谷区

東京都府中市

神奈川県相模原市

山梨県富士吉田市

長野県北佐久郡軽井沢町

新潟県十日町市

新潟県長岡市小国町

新潟県柏崎市郊外

新潟県刈羽郡刈羽村

新潟県刈羽郡刈羽村

新潟県柏崎市観音岬

2012

シビタ

Shibita

水と土の芸術祭, 新潟|映像プロダクション|Resolution: 1080×1920|Total time: 19min 58sec
音楽:福島諭
撮影&編集:吉原悠博

古代アイヌ社会では、「川」は海から陸に上り村の近くを通って山の奥に入り込んでいく一つの生命体と考えられていた。私は信濃川河口から始まり、甲武信ヶ岳の源泉までの367キロを旅した。この映像はその旅先で出会った光景を題材にしている。町並み、洪水跡と石碑、分水、古戦場、廃墟、水力発電用ダム、魚道、工場などが川と共に次々と現れる。この川を、古代アイヌの視点でみるならば、満身創痍の生物ということになるのだろうか? 私は、日本で一番長い川の現在を見つめて、未来の光景に想いを馳せた。

新潟県庁から信濃川沿いの中央区を撮影

新潟市中央区河口 日本海

新潟市中央区東堀前通

新潟市中央区新光町

新潟市江南区親松排水機場

燕市大河津分水新可動堰工事

燕市大河津分水新可動堰通水

小千谷市山本

十日町市子

長野県下高井郡野沢温泉村

長野県上田市生田

長野県小諸市山浦

長野県川上村甲武信岳

2009-2015

サクラ

水の記憶/ 新潟県立美術館, 新潟|地域交流センター, 新発田
映像プロダクション|Resolution: 1080×1920|Total time: 5min 58sec

新発田市にある城址公園は、現在自衛隊の駐屯地として使われているが、戦前は陸軍第十六連隊が駐屯していた。第十六連隊は日本最強といわれた陸軍で、数多くの兵士が外地へ派兵され散っていた。その史実に触発され、蕾、開花、満開、落花、溶解までのプレセスをHD動画で描写した。

溶解しはじめる桜の花弁

2009

水稲史眼

内野DEアート, 新潟|映像プロダクション|Resolution: 1080×1920|Total time: 19min 58sec
音楽:福島諭
撮影&編集:吉原悠博

2007年、新川掘削の史実に触発されて『新川史眼』という映像作品を、内野の新川流域にある静田神社内に設置した。その続編として、新潟県内の水稲をテーマに映像作品を製作した。撮影は四月から始まり、五月の田植え、六月、七月の成長期、九月の稲の収穫まで続けられた。私にとって、稲の成長をテーマに撮影するのは初めてのことであり新鮮だった。“豊穣な大地”“生命としての稲”“緻密な治水システムとしての川”、それらの美しい関係を初めて知ることになった。

新川河口排水機場に設置される世界最大の大型ポンプ 2009年4月22日

2007-2015

新川史眼

内野DEアート, 新潟|新潟県立万代島美術館, 新潟|新潟県立美術館, 新潟
映像プロダクション|Resolution: 1080×1920|Total time: 13min 30sec
音楽:福島諭
撮影&編集:吉原悠博

先人360万人の悲願によって掘削された人口の川、新川。この映像作品は、私が独自の視点で内野町を流れる新川の上流から海までの流れを追った映像作品である。また、映像の上映と同時に「越後新川町おこしの会」と協力し、新川の歴史資料を展示し、会場である静田神社を「新川博物館」として解放した。内野町に暮らす人、訪れた人、かつて暮らしていた人など様々な人々が会場を訪れた。

新川から上流、弥彦山と角田山が見える

2005

加治川の桜

地域交流センター, 新発田|映像プロダクション|Resolution: 1080×1440|Total time: 5min 58sec
音楽:福島諭
編集:吉原悠博

私の父である5代目・俊雄、そして新発田市に残された加治川の桜の写真を元に、映像作品に仕上げた川をテーマにした最初の作品である。この後に、川をテーマとする作品を何本も制作するとはこのころは思いもしなかった。
加治川の桜は、分水完成のメモリアルとして計画された。折りしも大正天皇ご即位と重なり、周辺町村一体となって仕事を進め、延長12キロ約6千本の桜並木となった。吉野桜に統一したために開花期には一斉に爛漫と咲き乱れた。まさに世界一の桜のトンネルが出現し連日大勢の観桜客でにぎわったという。しかし、昭和41、42年の集中豪雨によって加治川が破堤。桜が堤防を弱めたとして、伐採されてしまい、今は面影もない。当時を知る人々にとって、桜の季節になるたびに懐かしく思い出されるだけとなった。

2007

ナルミの一生

Narumi

地域交流センター, 新発田|空蓮房, Tokyo|EMON PHOTO GALLERY, Tokyo
映像プロダクション|Resolution: 1080×1440|Total time: 18min 58sec
編集:吉原悠博

吉原写真館三代目・長平の次女ナルミの乾板は際だって多い。幼少期から23歳で東京に嫁にゆくまでの写真が数多く残されている。嫁ぎ先の佐々倉家は当時東京の四谷区にて、大規模な四谷軒牧場を営んでいた。五人の子供を授かり、昭和49年3月10日満72歳でその生涯を終えた。
明治に生まれた女性の一生を、緻密なリサーチにより作り上げた映像女性史。

吉原ナルミ(18) 1919年

1歳、誕生日の記念に 1901年

5歳 1906年

6歳 1907年

16歳 1917年

17歳、甥・秀雄と共に 1918年

22歳、見合い写真として 1923年

23歳、結婚の記念として 1924年

27歳、長男・雄一と帰省時に 1928年

39歳、父の一周忌の時に 1940年

2007-2015

吉原家の140年

The 140 Years of the Yoshihara Family

Emon Photo Gallery, 東京|Space Kobo & Tomo, 東京|塩竃フォトフェスティバル, 宮城|新津市美術館, 新潟| 新潟県立近代美術館, 新潟|吉原写真館, 新発田|新発田地域交流センター, 新発田|Home office of Ikkan Sanada, New York|36TH INTERNATIONAL ART PHOTOGRAPHY SEMINAR, Lithuania|Fotohof, Austria
映像プロダクション|Resolution: 1080×1440|Total time: 34min 08sec
編集:吉原悠博

初代・吉原秀齋は三条寺町にて漢方医のかたわら、写真スタジオ「真写堂」を始めた。二代目・玄琳は明治23(1890)年、現在地の新発田市大手町に越し「吉原写真館」と屋号を変える。三代目・長平の代に軌道に乗ったが、昭和10(1935)年、市内で大火があり写真館も全焼。翌11年、四代目・秀長によって再建された。戦中戦後をこえて五代目・俊雄に継承。昭和の激動期から平成へと時は流れ、現在の六代目・悠博に至る。140年の映像家族史。

四代目・秀長(42)の子供達 1936年

初代・秀齋(82) 1875年頃

三代目・長平(37) 1907年

三代目の長男・秀長(16) 1910年

旧吉原写真館 1905年

三代目の長男・秀長(1) 1895年

四代目の長女・イク子(12) 1938年

四代目の次男・俊雄(18) 1942年

吉原写真館新築工事 1936年

四代目の長男・秀雄(22) 1944年

1997

VIDEO SHOW

FAMILIES/DJERASSI/FADE AWAY

ICC, Tokyo|映像プロダクション|撮影&編集:吉原悠博

1996年に磯崎新とともにアメリカのアーティスト・イン・レジデンス“Atlantic Center for the Arts”(Florida)に参加し、《FAMILIES》を制作。これに、前年“The Djerassi Resident Artist Program”(San Francisco)に留学した際に制作された《DJERASSI》と、この3年のあいだニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、フロリダなどアメリカ各地を訪れたときの映像《FADE AWAY》をあわせた3本による構成。
3作品は、それぞれまったく異なる表情を見せているが、アメリカという今なお求められているある種の理想郷の一面を表現している。前述した、アルメニアの作曲家アショト・ゾラビアンに焦点を当てた《DJERASSI》は、アーティストたちの理想郷(ただし隔離されているアーティスト・イン・レジデンス)のドキュメンタリー。感謝祭のディズニーランドに「理想の標準家族」を探しにでかけたある人物が撮影したという想定の《FAMILIES》は、ディズニーランドがそもそも本来もっている誇大妄想的な理想郷を浮き彫りにする。

DJERASSI

FAMILIES

FADE AWAY

1998-2001

Dust

神奈川県立音楽堂, 神奈川|美術演出/映像インスタレーション

5人のホームレス模したパフォーマーが、美しいハーモックボイスによって延々と述懐する。ヒーローは戦争で足を失った「No Leg」。不可逆な現実、妄想、夢、が舞台の上で交錯する。
電圧により透明度が変化する「ウムグラス」をパフォーマーの目前に置き、そこに映像をプロジェクションすることでパフォーマー自身をも映像化させた。その斬新な演出は、大きな反響を得た。

協力:SONY
Voices: Robert Ashley, Sam Ashley, Thomas Buckner, Jacqueline Humbert, Joan La Barbara; Musicians: "Blue" Gene Tyranny, synthesizer, Tom Hamilton, live mixing and sound processing; electronic orchestration by Robert Ashley, Tom Hamilton and "Blue" Gene Tyranny; sound e ects for "Friends" composed by Tom Hamilton.
performance tour
Lisbon,2001: Gulbenkian Museum Auditorium/ Paris,2001: Orleans Court of the Palais Royal/Austria, 2000: Festspielhaus St. Poelten/Warsaw, 1999: Roma Theater/New York, 1999: The Kitchen/Yokohama, 1998: Kanagawa Concert Hall

ロバート・アシュリーは1930年にミシガン州アナーバーの生まれ。ミシガン大学とマンハッタン音楽院に通い、61年から68年まで前衛パフォマンス・グループ“ONCE”の音楽ディレクターとして活躍。66年には、デヴィッド・バーマン、アルヴィン・ルーシェ、ゴードン・ムンマとともに、ソニック・アーツ・ユニオンを結成。主に声を使った実験音響作品を数多く発表し、後のアヴァンギャルド/ノイズ・シーンに多大な影響を与えた。
※ロバートアシュリーと吉原悠博のコラボレーションはDust(1998)、そしてIMPROVEMENT(1994)と2度おこなわれている。

1993

MEMORY OF MOM

Desert of Desires

Spiral Hall, Tokyo|絵画作品

当時、スタジオがあった相模原の郊外を走るバイパス16号線に、巨大店舗が次々と立ち始めた。外食産業が進行しモノが溢れ始めたのもこのころだ。ある日、材料を購入するために立ち寄った大型ホームセンターにあったペットショップで、餌として売られている缶詰入りのピンクマウスを発見して暗澹たる気持ちになった。その後、ピンクマウスの胎児の断面データーをCTスキャンし、それをもとに3Dのマルチプロダクト化、絵画作品に創り上げた。

主催:Wacoal Art Center
協力:D-MEC/東芝
オーガナイズ:飯田高誉

1989

Visions of Absolute Zero

寺田F号倉庫, 東京/広島現代術館, 広島|TV Installation|mixed media|100 TV monitors/5 Video Projectors 6000W × 6000D × 7000H

「塔」的なるものを巡って、西洋と東京の死生観の差異が蜃気楼のように揺らめき立つ。垂直と水平の動性は宗教的な深みを堪えつつ、感覚を揺さぶり眩惑の淵へと誘う。塔をテーマにした作品。
7体の塔型のオブジェと6体のベースを放射状に設置した。塔型のオブジェクトの上部からビデオプロジェクションで照らし出し、ベースからはテレビモニターの光で発光させた。すべて同じビデオソースでシンクロしていた。

音楽協力:池田謙
主催:寺田倉庫
協力:SONY
オーガナイズ:飯田高誉/フジテレビギャラリー
photo by 安斎重男

photo by Shigeo ANZAI

1989

PLEASURE-DOME

Spiral hall, Tokyo|TV Installation|mixed media|100 TV monitors/5 Video Projectors|6000W × 6000D × 7000H

情動機械、「ギャラリーフェイス」での個展の反響を経て、白いジオラマ世界を、人が入れるサイズまで具現化させようということになり7メートル平方の巨大インスタレーションを実現させた。テレビモニター100台とプロジェクターの光で揺らぎ、発光点滅する白いジオラマは「人間の意識状態のコントロールを目指した巨大なシンクロエナジャイザーという装着器具を彷彿させる」と評された。”絵画”とは、という問いの到達点が”媒介としてのメディア”なのだと、この時は結論づけた。このインスタレーションはNew York時代に作り始めた白いオブジェを作り始めたこれからの到達点になった。

音楽協力:坂本龍一/細野晴臣/立花ハジメ/加藤和彦/小田滝秀樹
主催:シャチハタ
協力:SONY/Wacoal Art Center/ヨコミゾマコト
オーガナイズ:飯田高誉/フジテレビギャラリー

photo by Naoya Hatakeyama

photo by Shigeo ANZAI

1987

情動機械

Affective tube of machine

Gallery Face, Tokyo|installation

白く塗り込められた廃材で緻密かつ暴力的に構築されたジオラマ世界が、テレビモニターの投影光で浮かびあがる。光のソースは、オンエアーされたテレビ映像をサンプリングし再構成されたものだ。何度も編集が繰り返されたため、映像は原型をとどめていない。フラッタリング、ノイズ、過剰な色彩の明滅が、延々と流転しつづけるだけだ。装置としての絵画を実現させるのが目的だった。

“現代のテクノロジーは、ロマン主義の神秘の夜を微分し、解析し、そのなかから『夜の太陽』を作り出すためのてがかりをあたえている。という直感を一人のアーティストが抱いた。ブラウン管の光に、彼は地上楽園にふさわしい太陽のかけらを発見したのだ。”(文化人類学者・中沢新一)

音楽協力:小田滝秀樹
主催:ニコル
協力:SONY
オーガナイズ:飯田高誉/フジテレビギャラリー

photo by Shigeo ANZAI

1984-1987

Untitled Composition

上溝スタジオ, 神奈川県相模原市|installation

帰国後、東京芸術大学2年に編入したが、当時の大学と、感覚的にだが距離をとりたかった。New Yorkで得たことを、ゆっくりとかみしめたかったからだ。結局、大学から遠く離れた相模原にスタジオをかまえ、日々作品制作に没頭した。

1983

Breakfast

Space WA, New York|TV installation

New Yorkでの生活の中で、最も印象に残ったことのひとつは、塗り重ねられた白い壁だ、窓から差し込む夕日で伸びるディフォーカスされた影や、テレビモニターの光の反映でフラッタリングする美しさに何度となく感動した。この白い空間は、なんと言っても全てが明確ですっきりしている。床は床、壁は壁、窓は窓と、言葉と機能が完全に一致しているからだ。このインスタレーションは、自身のNew Yorkで得た印象を再構築したものだ。偶然訪れたナムジュンパイクとの出会いは、とても大きかった。

※「Space WA」=New York、Soho地区Mercer streetにあったnoprofitable Gallery。日本の現代美術を世界に伝えようという考えをもったギャラリーやアーティストの有志で作られた。

1982

Snow works

Pratt Institute, New York|installation

1983年3月、New Yorkを寒波が襲い、留学先の「Pratt Institute」のキャンパスにも一夜にして30cmほどの雪が積もった。純白の雪のキャンバスに、大きなドローイングをしてみたいという衝動が突然高まり「Snowworks」が始まった。私の描いたドローイングの道を、”Thank you”と言って通り抜ける人や、興味をもって近づいてきて質問責めにする人にも出会った。私の中で、大切なアートイベントになった。

photo by AKIYOSHI TANIGUCHI

1982

Cloth

UENO 82'/東京芸術大学展示室 2F|オブジェ/布に乳剤を塗り転写

絵画に使用する帆布を複数枚重ねて物質感を強調したうえで、フラットな布の表面に写真乳剤を塗り、シワの陰影を感光定着させた。視覚、質感、記憶をテーマにした作品。
当時の東京芸術大学は、川俣正、保科豊巳などの現代美術界から生まれた新しいスターの影響で活性化していた。学生だった私も多大な影響をうけた。また、安齋重男氏のアシスタントをしていた時期でもあり、現代美術の中心であるNew Yorkに自然と目が向いた。半年後、この二年間の作品と活動が認められグラントを得て、New Yorkの美術大学「Pratt Institute」に留学することになる。

photo by Shigeo ANZAI

1981

PHOTO COLLAGE

FORTRAN

東京芸術大学展示室2F, 東京|写真

(株)IBM社、ジョン・バッカス氏によって考案(1954年)されたコンピュータにおける世界最初の高水準言語「FORTRAN」を借用して5名(Yukihiro Yoshihara, Satoshi Furui, Kouki Mizutani, Eiki Hirota, Tetsuro Komatsuzaki)のユニットを結成。東京芸術大学内の展示室でグループ展をおこなった。 私が出品したのは、そのメンバーを撮影したスナップを再構成したコラージュで、ソラリゼーション、リスフィルム、反転させたフィルムなど、偶然起こった効果を定着させ再構成した。

フォトコラージュ

photo by Shigeo ANZAI

当時、周辺では数多くの展覧会がおこなわれていた。DMを送っても特別に興味を持たれなければ、だれにも観にきてもらえないだろうという危機感がメンバーの中にあった。そこで、展覧会のDMがアメリカ経由で送られてくる演出を考えた。写真家・安斎重男氏と出会い、多大な影響をうけた。

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